同窓会(本部)理事会が有りました。

2015年11月25日 麻布大学同窓会(本部)理事会が有りました。
27年度理事会
午後1時半よりテラス いちょう2階 多目的室1で行われました。
司会の開会宣言、出席状況から会の成立が報告され、物故者への黙祷が有り、福山会長挨拶後、議事にはいりました。
会則により、会長が議長となり、議事録署名人は、議長指名で大島氏、志村氏がなりました。
理事会
報告事項
 1,平成27年度事業報告及び収支中間報告について
 2,麻布大学同窓会会長選任規程の一部改正(案)
 3,代議員会及び第2回理事会での要望事項等について
審議事項
 1,理事会及び代議員会開催のあり方について
 2,その他
活発な意見がいろいろ有りましたが、いくつか紹介いたします。
まず、卒業生子女枠入試について、同窓会維持会員を優先にするよう、大学に要望してほしいとのご意見が有りました。
維持会員確保においても、意味あることだとご意見が出ました。
入学時に同窓会への会費(準会員は、4分の1)と入会金が払っていただいてます。
これは、同窓会の運営に大きな収入で有ります。そこで少し値上げして終生会費とする
思索をしています。ただ支部に会費を払わなくなり疎遠となるのではとの意見も有りました。
また、支部の運営に本部から協力金を払うことで支部へ協力できるのでは、との意見も出ました。
代議員会について、前回で100人超えで1名追加は、無くなり各支部1名になりましたが、
代議員会と理事会の開催日を分けることに今回の理事会で決まりました。
午前中の理事会、午後の代議員会と行っておりましたが、十分に理事会での審議ができずに
代議員会に議案を持っていくことになり、時間の制約等で理事会がまとまりにくいとのことです。また、代議員会の理事の出席も役員だけとし理事全員出席するわけではないので、経費的にも少し削減できるとの話です。
学生さんは、同窓会への意識が薄いので、テラスいちょうの2階に移った事で、同じフロアーに学生さんが集っています。これはアピールするいい機会になります。ぜひそのようにして、準会員であることを意識してもらいましょう。ホームページもリニューアルしたこともいい機会でしょう。
このような意見が話し合われました。

銀杏並木が、少しだけ色づいていました。

理事会で2015年11月24日に学園に行きました。
まだ、銀杏並木は黄色くなってませんが、少しだけ色づいていました。
秋を感じる色合いを出している木々も有りました。
日が暮れてからもL学部棟のエントランスや2回のエレベータスペースわきで勉強する学生たちがいました。
ウィンドチャイム(ドックカフェ)に鳩時計が小さいですが、入りました。
また、大きな黒板が付きました。
L学部

イチョウ

紅葉はじめ

鳩時計

東京同窓会27年度総会 スクワール麹町

平成27年11月12日木曜日に、スクワール麹町で東京同窓会27年度総会が行われました。
27年度総会 総会
今年度は、学園の125周年記念講演、式典と大きなイベントが有り、そちらに集中していましたので、通常では6,7月に行われていた総会がこの時期になりました。
少人数の総会となりましたが、最年長の古川橋の校舎を知り、相模原の最初の卒業生である足立先生が、お元気に出席されました。
総会では、11月28日に本部理事会が有りますが、本田先生が本部のあり方に意見を述べることで、参加者より賛同を頂きました。
27年度総会 司会の本田先生
懇親会では、立食を今回はやめて、ロの字で、お弁当形式にしました。
27年度総会 懇親会127年度総会 懇親会2
みなさんが同じ話題を共有しながらの歓談となりました。
足立先生、飯塚先生、堀先生、牧先生が在学中の話や、同窓会のエピソードを語り合い、共通の先生が、どうであったか聞ける楽しみを分かち合えたと思いました。

東京都支部100周年記念に寄せて

前麻布大学同窓会会長
小野口 勝巳

この度、支部設立100周年を迎えられたことは、支部長をはじめ会員の皆様の結束力とたゆまぬ努力によるものと心より敬意を表します。

麻布獣医学園は来年で125周年を迎えますが、同窓会も明治30年代に学友会として発足し、それに続いています。何れの歴史も創られる物でありますが、諸先輩方の努力の賜物であり、今後とも永遠に続くことを祈念申し上げます。

さて、同窓生同士がとかく疎遠になりがちな今日、いかに同窓会の活性化を図るべきか検討を進めております。現在、2学部5学科を有する大学の発展を期するために、学部・学科の垣根を越え、「麻布」の卒業生を意識し、お互いの情報交換によって生涯の有形、無形の財産とし、同窓会を盛り上げていくことが大切であると思います。

貴支部におかれましては、ますます発展されます事をご期待いたしますとともに、横尾支部長をはじめ会員各位のご多幸とご活躍を祈念申し上げます。

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新刊情報「動物のいのちを考える」高槻成紀先生著作

新刊書籍のご紹介です。
画像:書籍「動物のいのちを考える」
今年退官された、動物応用学科の元教授で、いのちの博物館の高槻成紀先生が、「動物のいのちを考える」朔北社より出版されました。

本書には名誉学長の政岡俊夫先生が「まえがき」を、
理事長の柏崎直巳先生が「ラボから始まるいのちー家畜・実験動物からヒトまで」を執筆しています。

このほかペットの売買、動物の食、動物園の動物、野生動物など、動物のいのちについて多面的な立場からの執筆者が参加しています。

高槻成紀/編著
大田匡彦、新島典子、成島悦雄、羽澄俊裕、共著
四六判並製332ページ
本体2200円+税(2015年10月現在)
2015年10月10日刊行
ISBN 978-4-86065-121-7

ご注文は、出版社サイトからもできます。
出版社サイト:朔北社:動物のいのちを考える

その他の高槻成紀先生の著作

ヒトと動物-野生動物・家畜・ペットを考える-
画像:書籍「ヒトと動物」

刊行から13年。沈滞した経済社会のもとで動物をめぐる環境は大きく変動した。本書は、新たな執筆陣を迎えて、多様性に富んだ視角から「動物のいのち」を考えている。(朔北社のサイトより引用)

林良博・近藤誠司・高槻成紀/著
四六判 並製 338頁
本体2400円+税(2015年10月現在)
ISBN 4-931284-84-1
2002年7月刊行

ご注文は、出版社サイトからもできます。
出版社サイト:朔北社:ヒトと動物-野生動物・家畜・ペットを考える-

麻布大学東京同窓会100年史 〜獣医学校の発展とともに〜 目次

はじめに

私達「麻布」の卒業生は、良き先輩、同僚、後輩に恵まれ、互いに励まし合い助け合って、同窓の絆を深めて参りました。

そして、今日、職を得て生活し、社会に貢献できるのも「麻布」を卒業したからに外なりません。

さて、麻布大学東京同窓会は、大正3年(1914)創立以来、昨年100年を迎えることができました。この間常に全国同窓会の先頭に立って活動を続け母校の発展にも寄与してまいりました。そこで、この際に同窓生各位に改めて母校「麻布」を思い出しながら、今後も引き続き同窓の絆を深めて頂きたく、このたび東京同窓会小史を作成いたしました。今後とも同窓会発展のために東京同窓会にご支援ご協力をお願いいたします。

事務局一同

目次

会長挨拶
学長・理事長祝辞
前麻布同窓会会長祝辞
大学の沿革
麻布大学同窓会発足
東京同窓会の生立ちと現状
東京同窓会歴代会長
東京同窓会会則
東京同窓会役員名簿
投稿
麻布大学の周辺
戦前の淵野辺の地
同窓会と人間関係の継り 飯塚武文
参考資料

麻布大学東京同窓会100年史 同窓会と人間関係の継り

飯塚武文

私は昭和30年卒で4月に動物愛護協会病院に勤務しました。院長は二代目、青木正先生で、卒業後ペルーに移住し、戦後GHQ獣医部所属で帰国しました。26年に英国大使館主体で設立し、婦人の欧米の方々が活動して居り、理事長は斉藤弘吉氏でしたが、欧米、院長側とは溝が有りました。獣医は、前川博司先生(慶応獣)、松川岩天(麻布)、私と4人でした。翌年6月頃、上条峻先生が長野で大動物開業から、小動物開業のため実習に来られ暫らくしてから大田区雪ヶ谷で開業されました。32年には、動物福祉協会と分裂しました。私も10月に退職し、診断書を開設し、動物愛護関係と福祉協会に協力して居りましたが練馬区の現在地に病院を開設しました。その後、同窓会に入会しました。大先輩の岡田博亘先生は銀座で開業されて居りましたが、64年に千葉県流山市に移住しました。先生は詩吟会では一流の先生で新橋に教室を持ち、多数の方々に指導して居りました。東京都獣医師会館、会議室でも獣医師、一般の方にも、月に二回程で指導して居りました。私は遅い方でしたが上条先生に誘われ入会したのは、この頃です。この教室での人間関係が不思議と継がるのです。今から20年前、一般社団法人、アジア和平日本委員会が、タイ国カンチヤナブル市に神道平和記念公園(300坪)を設立しました。私も縁があり協力して来たのです。タイ国では、シントウーパークで通じて居ります。大自然石に平和祈念慰霊碑を建立しました。台座には全国の奉賛者の名が刻まれて居ります。私も知人、友人ら50名の方々の名が連なって居ります。又動物慰霊碑には岡田先生の和歌「暖風(かぜ)そよぎ、若草萌える丘の辺に哀れ斃れし軍馬(うま)を埋めん」岡田柴友と並んで居ります。

岡田先生はこの地カンチヤナプリに日本軍の駐屯地が有り、半年間の生活が大変な事柄があり、詩を沢山作り又話を聞いたりしました。ビルマ戦線では、椿精一先生(昭和11年卒)、岡田先生(昭和11年卒)でビルマ戦線では一緒でした。動物慰霊碑の揮毫は高橋威彦先生です。裏面には、田部幸雄氏、高橋威彦氏、深谷幸作氏、藤田耕作氏、私です。田部幸雄(岩手獣)先生、高橋威彦(日大獣)先生は、インパール作戦に参戦しました。あのインパール市が見える山での激戦で撤退せざるを得なくなり、撤退中に司令官が倒れ、ふくしれいかんが田部先生にどうしても指揮を取る様にとの事で、指揮し部隊がラングーまで撤退出来たと自叙伝で書いて居りました。

高橋先生は別の撤退ルートで、小隊長で生還され、やはり自叙伝で獣医の知財が助けたと居りました。今も、ミャンマー(ビルマ)カンチヤナブル県国境付近には、50万体の遺骨が皆東を向いているそうです。藤田耕作氏は、椿精一先生が、北里大学理事長時、総務部長で片腕として仕えた方で、タイのチャランコ大学の学生60人のホームステイでお世話して居り、6年前に大学の動物病院を見学に行きました。立派な病院で教授の案内を受けました。先生は、麻布大学の若尾義人教授の元で勉強した方で、病院には何人かの教授が居りますと言って居りました。同窓会本部の理事で東北選出の伊藤多喜雄さんが居りました。同じ秋田で故郷は、私の近くで、23年卒で状況の時はお会いして居りました。或る時、今日の理事会で、常任理事に推薦されてたとの話で、間違いだと言ってたのですが一週間後に、本部より推薦状が届き、戸惑ったものでした。同窓会本部の財源は以前より聞いて居りましたが、深谷法人理事からも椿会長の時、評議員会で認可されたのに7年立ってもこの状態で困っているんだと聞いては居りました。上条峻先生の理事長選出は私達が強く押したものですが、平林賢三先生からも大変なことだから何んかしなくてはと話し合った事も有りました。その後、法人の事務局で問題も起こり、上条先生と詩吟の稽古の終わりに二人で話し合いました。その1週間後に法人の理事会が有り、認可されたとの事で皆な喜びました。今年は大学の125周年で式典が有り、私も父が大正6年卒の卒業アルバムを提出しました。中村道三郎先生の、病院実習で馬の手綱を引いていたのが父です。私も家畜病院の研究生でした。病院長は中村道三郎先生でした。不思議なものです。タイ国人間関係ですが、堀浩先生(39年卒)で、アジア野生動物で研究センター代表です。タイ政府公認の法人また私立大学の客員教授です。6年前、東京で同窓とシントウパークの幹部6人で食事しました。その時、堀先生から、今使用している車が大分古くなり危険との話しで組織の代表に協力して戴き、堀先生が同窓会報に動物救急車が寄贈されたことの報告が有りました。日本、タイの動物クラブの学生を連れてシントウーパークに行くようです。息子の飯塚修氏は、同窓会報の編集委員長を四期努めてますが良く頑張っていると思って居ります。日本テレビの志村動物園は、始めから息子が監修しており、堀浩先生と2人やって居ります。神道平和祈念公園は2年前に、タイ政府が、戦場に架ける橋等、この地域の施設を、世界文化遺産として、ユネスコに申請しました。このシントウーパークも申請を同時にして居ります。こん度、日本政府、タイ政府合意に新幹線、バンコク、チェンマイ、760㎞が、日本の技術で建設に入ると報道されました。まだ先の完成でせうが、バンコクからは、カンチャナブルまで、大体150㎞有りますが、近くなります、タイ国旅行の折は、このシントウーパークにもお立ち寄り下さい。日本人の管理人が住んで居ります。

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麻布大学東京同窓会100年史 戦前の淵野辺の地

当時の見取り図を再現した冊子をコピーしたものです、一部欠けているところも有りました。麻布大学は、左の一部と思われます。
画像:旧陸軍兵器学校見取り図
旧陸軍兵器学校見取り図

画像:旧陸軍兵器学校正門前
旧陸軍兵器学校正門前

昭和20~30年代

画像:正門前 昭和26年
正門前 昭和26年

画像:矢部駅を左隅に見ながらの航空写真
矢部駅を左隅に見ながらの航空写真

画像:淵野辺高校側から見たグラウンド 淵野辺高校側から見たグラウンド 

画像:淵野辺高校淵野辺高校
淵野辺高校

紫泉寮焼失後に建てられた学生寮、元のところより南門に近くなった。左に低く伸びる食堂が有り、寮生以外も利用していた。

画像:学生寮
画像:学生寮

2015年にこの地にテラスいちょうが完成し、同窓会本部が2階に移転した。

画像:テラスいちょう
テラスいちょう

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麻布大学東京同窓会100年史 麻布大学の周辺

横浜線淵野辺駅から獣医大通りを経て、東門から通っていた動線が、今は矢部駅から正門へと変わりました。横浜線も単線から複線へと本数も増え、沿線の人口がリニアモーターカーの開通がよていされ、小田急の乗り入れ、相模補給廠の返還等で急速に発達しています。母校の周りは、マンションが建ち、東門の前に有った小松製作所の跡地にも建設中であります。横浜線沿線は、大きな企業が存在しそれに伴い人口が増えて、単線から複線に、列車のダイヤも大幅に増え、町田駅と淵野辺駅の間に古淵駅ができました。その周りに大きなモールがあり、16号線はますます混雑してきています。

一方学園周辺の懐かしい店も元気に残っています。そこで周辺の写真を幾つか載せることにしました。

画像:麻布大学の周辺

画像:矢部駅
矢部駅

画像:矢部駅

画像:正門から矢部駅方面
正門から矢部駅方面

画像:淵野辺駅 鹿沼公園口
淵野辺駅 鹿沼公園口

画像:淵野辺駅から獣医大通りに向かう
淵野辺駅から獣医大通りに向かう

画像:獣医大通りの日青楼
獣医大通りの日青楼

画像:高千穂
高千穂

画像:学園南端の安藤商店
学園南端の安藤商店

画像:陸軍工科兵器学校跡陸軍工科兵器学校跡
陸軍工科兵器学校跡陸軍工科兵器学校跡

画像:馬頭観世音と畜魂碑
馬頭観世音と畜魂碑

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麻布大学東京同窓会100年史 投稿

麻布大学はなぜ「麻布」なのか

昭和23年獣畜専卒 足達卓治(東京都)

最近の学生諸君は、大学名がなぜ麻布なのか知っているだろうか。現在は渕野辺にあるが、大学発祥の地が東京の麻布だったと、うすうすは知っているだろう。

しかし古い卒業生は、麻布の「古川橋」といって、あの地名と校舎をなつかしく想い出すのである。

明治23年(1890)、大学の開祖である與倉東隆が、かねて畜産と獣医学術の向上に関心を寄せていた時の農商務大臣松方正義の依頼により、獣医免許試験受験者と既得者再教育のため、「東京獣医講習所」を開設したのが当時の東京市麻布区新堀町(現港区南麻布)であった。ここが発祥の地である。

この年、明治18年(1885)施行の獣医開業試験規則が廃止され、新たに獣医免許規則が公布され、免許を受けなければ開業できない制度になった。しかし学校で農商務大臣が認可した学則により獣医学を専修し卒業した者は免許を得ることができるとされた。東京獣医講習所も追ってこの指定を受ける。また蹄鉄工もこの年規則ができ免許制度になった。

さて話はもどるが、この麻布の地は、古くは永禄9年(1566)北条氏が出した掟や天正18年(1590)豊臣氏が出した制札に「阿佐布」の地名があって武蔵國白金之郷阿佐布と表示してある。元禄年間(1690年代)には江戸城外堀溜池の西南に位置する武蔵國澁谷のうち竜土・六本木など7村をまとめて阿佐布村と総称していたようだ。天正年間(1580年代)にはこの附近一帯で麻を作り、布を織り、紙を漉いていたので麻布と書くようになったといわれる。文久2年(1862年)の江戸城一帯の地図には、後の新堀町に植村駿河守と堀石見守の下屋敷が描かれている。明治11年(1878)、かねて江戸市中を大区・小区に分けていた区域制度が廃止され、江戸中心部に15区を設け、区名は江戸城の城門から採用し、芝口門一帯を芝区、赤坂門一帯を赤坂区としたが、麻布一帯は中世紀以来の古地名を用い麻布区とした。また周辺に荏原郡など6郡を置いた。

その後明治22年(1889)東京市制が布かれ、更に昭和7年(1932)には、区部に隣接する荏原郡、豊多摩郡など郡部のうち、82町村を合併した20区を15区に加え35区とした。そして昭和18年(1943)東京府は東京都となる。終戦後昭和22年(1947)、35区は再編されて23区となるが、このとき麻布区、赤坂区、芝区の3区が合併され港区になった。

そこで、改めて明治9年(1876)の古地図をみると、江戸市中第十二小区内の麻布新堀町一
番に松方正義名義の土地が記載されていて、その三番という土地が、東京獣医講習所があった場所に当たる。このことから、松方が当時東京農林学校(現東京大学)獣医学部長だった同郷(鹿児島)の與倉東隆(よくらはるたか)に、獣医実務教育の向上を託すについて、講習所設置のための土地を斡旋したのではないかと思われる。そうとすれば、與倉はなぜ麻布の地を選んだのかという謎が解けるのである。そして與倉は、私財を投じながら関係者の支援を受けてこれを開設する。何れにしても、麻布が呱々の声をあげた場所であり、明治27年(1894)麻布獣医学校と名称を変えて以来、一世紀を超えて今なお「麻布」が受け継がれているのである。

さて私が麻布に入ったのは昭和20年(1945)4月であるが、学校は麻布区新堀町11番地にあった。

品川から泉岳寺前を通り抜けた都電が、目黒と五反田からそれぞれ白金・清正公前を通ってきた都電と、魚藍坂下停留所で交叉した次の停留所が古川橋停留所だった。この古川は、渋谷方面から渋谷川・宇田川と更に笄川を集める清流で、麻布区と芝区の境をなし、浜松町で東京湾に注いでいた。この古川に架る古川橋の上流に四の橋、下流に三の橋から一の橋という橋があってそれぞれ都電の停留所があった。附近には寺が多く、商店の点在する住宅街だったような記憶がある。今では古川は埋め立てられ、その上を高速道路が走り昔の面影は全くない。

その古川橋の停留所から横丁を入った左側に学校があった。明治41年(1908)改築の木造2階建てで、口の字型で中庭があり、休み時間などには角帽をかぶった学生が屯していた。入口左側に附属家畜病院があったような気がする。さて、当時は太平洋戦争のさなかで軍事教練が正科にあり、玉電(現田園都市線)大橋駅近くに兵器庫があって、入学直後から駒澤練兵場で教練をやらされていた。そして5月中旬野外教練と称して御殿場在の板妻廠舎(軍隊が演習で泊る兵舎)に1週間ほど行った。まさかその直後に学校が戦災に遇うなどとは予想もしていなかった。

ところで、昭和16年開戦の太平洋戦争も、昭和18年頃から次第に戦局が悪化し、この頃から米軍艦載機の本土空襲が始まり、翌19年6月北九州を最初にB29爆撃機の本土空襲が始まる。B29は4発のプロペラ機で高度1万メートルの上空を飛ぶ。当時の日本軍の飛行機はせいぜい双発で、そんな大型機は見たこともないから、高高度の青空に白い飛行雲は美しかった。

東京は19年11月B29の初空襲以後頻繁に続く。最大は20年3月9日夜半、B29約300機が大挙して上野・浅草・下町方面を襲い、死者7万6千人、焼失戸数26万戸の被害だった。大型爆弾の他に油脂焼夷弾というのが落ち、炸裂して火がついた油脂が飛び散り、木と紙でできている日本家屋はひとたまりもなく燃えた。

昭和20年4月に入っても、京浜地区・城北地区と連日のように空襲が続き、そして遂に麻布にとって運命の日が来る。

5月25日、22時2分警戒警報発令、22時22分空襲警報発令、房総半島上空から都内中心部に侵入したB29約250機が、22時30分から2時間にわたり投下した爆弾は、250キロ級150発、大型焼夷弾が1,820発、それに小型爆弾146,750発(消防庁資料)というすさまじさ。麻布区内も7割が焼失、死者180人、負傷者1,500人という被害。母校麻布も一夜にして灰燼に帰した。やや古かったが近所から見れば瀟洒な校舎も、病院も、貴重な標本も全て失った。入学してわずか2か月あまりのこと。
(※現在、跡地に「麻布大学発祥の地」として記念碑が建立されている。)

勿論授業はできず、学生は動員に駆り出された。私達1年生も、半分は輓馬機動隊と称して品川の基地から馬車で物資を都内に配る役、半分は地元の消防署で望楼(火の見櫓)に登り火災発生を見張る役に就かされた。

そして暑かったあの8月15日、思いがけぬ終戦。麻布にとって戦争の代償は何一つ残らない。学校も学生も、これまでの

目標を失い、開学後半世紀余にして存亡の危機に陥るのである。

しかし気をとり直して11月頃から授業再開となり、復興に動き出すが校舎がない。大橋の兵器庫跡、他の学校や工場跡を転々として、ようやく昭和22年渕野辺に落ち着く。ここに辿り着くまで学校当局の労苦と努力は計り知れない。学生も荒れ果てた陸軍兵器学校跡の教室や学生寮で、教科書もなく食糧もない3年生の1年を送り、学債も買って復興に協力した。渕野辺での第一回卒業生となるも激動の3年間だった。

この頃から麻布は不死鳥のように甦る。被災後60年、今では立派なキャンパスだ。しかも純血を保っている。

ふり返れば当時が懐かしく、麻布を出たおかげで今日まで禄を食むことができた。そして多くの先輩後輩の知遇を得てお世話になった。同窓の絆は遺伝子としてこれからも受け継がれていくだろう。その限りでは、同窓生は皆麻布のクローン人間である。

明治38年(1905)、当時の麻布獣医学校の卒業生が校友会を設立したのが同窓会の起源とされ、その後大正3年(1914)東京同窓会が発足し昨年満100周年を迎えた。

麻布大学はなぜ麻布か。いや、麻布は麻布なのだ。いつまでも。

下は最近の古川橋の地図です。首都高速道路が走り、地下鉄東京メトロ南北線も走っています。

画像:明治9年(1876)「東京全図」より
画像:明治9年(1876)「東京全図」

参考資料
画像:校歌・寮歌
大学校歌・寮歌

画像:学生歌
学生歌

画像:大学歌
大学歌

画像:大学歌
大学歌

画像:麻布豪気節
麻布豪気節

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